人間は、究極的には、「視たいものを視て、身体(脳)に残す」のであり、カメラは、「視えるモノ全てを視て、外部に提供する」のである。ということが人間の知覚とカメラの知覚の差異を端的に表していると言えるのではないだろうか。
人間の眼は、行動の有用性を尺度に目の前に在るものを「縮減」して視る。物理的には眼に入るはずのものでも有用性がないと経験に基づいて瞬間的に判断されれば、目に映らない(映らなかったことになる)。それは、観者の脳内に留まり、外部に出ることはない。
一方、カメラは、対象となるモノをその認知能力の可能な限りに微細に渡って全てを認識する。また、その範囲においても認知可能な全ての範囲を濃淡の差なく認識する。そしてその結果を外部に出す、アウトプットする。このアウトプットの必然性が、共有可能性を持つという点を、差異であり特徴として生み出す。カメラの映像は、現実をある時点(瞬間に近い場合から数時間にいたる場合もある)で切り取った(特定の枠組みにあてはめた)情報であるが故に、同一の内容を多数の観者と共有することができる。しかし、あくまでも映像は、「観られて何ぼ」である。造られた映像もそれを観る人なしには存在しないのであり、観者の主観を介するということで完全に客観的な映像というものは存在し得ない。
これらの差異に関連する技術を進化させて、映像における「深度」・「範囲」・「時間」の制御を人々は可能とした。人間の視覚では意識しない細部を明らかにすることや、人間の視覚認識機能・特質(弱点)を利用した映像に立体感を持たせるなど深みを持つことも可能とした。そして、フレームという制約は持ちながらも、切り取る(入れ込める)範囲を拡大・縮小可能とした。クローズアップやパノラマビューである。また、より短い時間間隔の状態を切り出す、または、より長い時間間隔の状態を切り出しとどめる、という事も可能とした。
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